昨夏コラボさせていただいた藍の染色家・松永優さんの感想です。なぜか「アクセスが許可されていません」とはねられて書き込めなかったそうで、直接メールをいただきました。「よかったら、谷さん自身で書き込んで」とのことでしたし、私自身ぜひ皆さんにも読んでいただきだい内容なので、自分で打ち込みます。なんだか自画自賛するようで恥ずかしいのですが、私ではなく、松永さんの言葉なので、許してね(笑)。
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「空のかあさま」川越公演を魅せて頂き、ありがとうございました。1年ほど前に宮原で同じ公演を観ましたが、全く別次元ともいえる表現に様変わり。1ランクも2ランクも進化、そして深化した表現にうれしくなり、掲示板に書かせていただきます。音楽も照明や装置も、素晴らしかった。とくにシャボン玉の、はかなさと共にほのかな希望を感じさせるラストは、見終わってなお豊かな余韻を残すものでした。
なにより今回、目を見張ったのは谷さんの表現スタイルです。率直に言うと、これまで金子みすゞの詩の「伝道者」、あるいは夭折したみすゞの「口寄せ」の役割を演じていたと思います。ところが、今回は違う。金子みすゞの後ろに隠れていた谷さんが、女優 谷英美として前面に出てきたのです。舞台には、重い背後霊を脱ぎ捨てた谷英美が一人立っていた。みすゞの詩とその世界を、自分の身体に取り込み、完全に消化(昇華)したなァと感じました。
それは、雑ぱくな言い方をすれば、金子みすゞを突き放し、分解し、再構築した末の、谷英美の詩であり言葉になっていたように思います。全体の印象として「クール」に見えたのもそうした客観性のせいでしょうか。寒村の文学少女、家族の黙示録、死を背負う母娘…時代の困難性と共にどうしても情緒的になりがちな筋立てを、あえて回避する箇所がいくつも見られたように思います。
前回の公演では分離していた「詩」と「地」の言葉が、見事に融合していたのにも驚きでした。ぼくらをいっとき、金子みすゞの詩に誘っておきながら、あれよあれよ、みすゞの言葉と谷英美の身体表現とが分離不可分になる。それは混沌と言ってもいいだろう。ぼくらはいつしか歴史的な時間の境界、みすゞと女優 谷英美の境界、そして、その場に居合わせるぼくとの境界を越えてしまうのだった。
一方で、こうした抽象化された表現は、観ている人を混乱させたかもしれない。若くして自死した悲劇の童謡詩人とか、歯医者の待合室に飾ってある平明な生命讃歌というイメージを期待するむきには、理解はむずかしかったかもしれません。でも、これは仕方がないことでしょう。ブレヒト流に言えば、芝居を愉しむとは自分自身を舞台に参加させること、そうした異化と同化の作用が舞台表現の醍醐味なのですから。
いい舞台だったからこそ、一人芝居はむずかしい、という印象を新たにしました。藍染めのようにモノトーン(一色表現)でありながら、艶や色彩を感じさせる難しさ。表現主体が「個」でありながら個を超える、あるいは個を分解して、多重的・重層的意識を言語化する英知が要求されるのかもしれません。
新しい表現方法を獲得した谷さんとアローン・シアター、そして「囲む会」の未来に拍手を送ります。
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