史帆ちゃんの“みすゞ観”、多くの共感を持って読ませてもらいました。ありがとう。命を謳う みすゞが、なぜ自死を遂げたのか…彼女の弱さを指摘する声もあります。でも人でも物でも“否定”から入ると、大事なことが見えなくなる恐れがあると私は考えています…私が考えているというか、6月に亡くなったかけがえのない方から教わったことです。(このことは子供たちと接する時にも、ぜひ大事にしてい下さいね。)
みすゞは、充分強かったし、頑張った。ただ、支えてくれる人がいなかっただけ。雪に耐え、しなる枝には、もとに戻ろうとする力がある。でもたまに、耐え切れず折れてしまう枝もある。そこに“つっかえ棒”という支えがあれば、折れずにすむ。私は彼女の死を、そのようにとらえています。彼女は、本当にひとりぽっちだった…。孤独という毒は、命を蝕むに充分な強さを持つ毒です。人間が根源的に抱えている孤独は、一人で引き受けるしかないものですが、と同時に、人は一人では生きてゆけないものだと私は思っています。
彼女の死生観において、死は生から切り離されたものではなく、生と地続きの身近さで傍らにあった。自殺願望というとちょっと違うかもしれないけれど、恵まれない境遇が死へ傾斜させていった部分はあるかもしれません。死が傍らにあったからこそ、あんなにもキラキラと命のきらめきを掬い取ることができた!!!史帆ちゃんも言っている通り、そういう人だからこそ書けた詩だろうと、私も思います。生き様と詩は不可分です。
授業でふれることはできませんでしたが、みすゞには、心の闇を映している詩も、実はたくさんあります。そんな負の部分も、私は愛でてゆきたいと思っています。「生きるための汚物は、全て劇的で美しい」…私の一人芝居を書いて下さった師匠の言葉です。地を這うようにして、喰えない芝居を続ける私に贈って下さいました。「自分自身を励ますための言葉です」との添え書きと共に。
みすゞにも、もっとたくましく生きて、書いてほしかった。でも筆を折った時点で、生き抜くことも難しくなってしまったのでしょう。みすゞの書いた詩は、彼女自身を支えていたと私は考えています。彼女の詩が、多くの人の心の慰めとなっているのは必然と言えるかもしれません。みすゞは、生きるために詩を書いた。みすゞ自信の生きる支えであった言葉が、今を生きる私たちを支えてくれるのは、ある意味当たり前といえば当たり前。みすゞの詩は、宗教と結びつけて語られることが多いです。昔は、かなり引いていました(笑)。でも今は、わかるような気がしています。
今回のみすゞの知識が、直接授業に役立つことはないかもしれません。でも深みのある授業をするには…というヒントになれば嬉しいです。文学は、人が生きることを感動を通して学ぶ素晴らしい学問だと思うから。子供たちに、その素敵さを伝えられる先生になれるよう、ガンバって下さいね*smile*
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