2013年4月29日月曜日

2013年4月15日みすゞ塾レポート

塾生は、とっくにレポートを送って下さったのだが、毎度UPが遅くて、すみません。

6月『センセイの鞄』公演のDM発送がやっと終わりました。が、公演プレスリリース用の文書作成…『アローン・シアター』応援団会報の原稿書き…8月・米沢公演チラシの文言等を主催者と詰め…と、作文責め。川越市からの委託事業としてイベントをする予算獲得のための書類の締め切りが、5月10日。ぐっちゃぐちゃの同時進行で、脳がヘロヘロしてますワ(笑)。

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この日の詩は「日の光」「大人のおもちゃ」「蝉のおべべ」「花屋の爺さん」「悪太郎の唄」(『美しい町』JURA出版局より)の5編を取り上げた。塾生は、この中から3編を選んで朗読する。今回は、みんなの発表で考えたことを2つ、私の意見を述べてみたい。

1つ目は、みすゞが雑誌に投稿した作品と遺稿の作品の表記の違いについて。

「日の光」は、昭和3年11月『燭台』に掲載された。遺稿とは言葉の使い方がまるで違う。それは、なぜか、その理由を想像してみると、次のどちらかだと思う。

① 投稿作品が、選者または雑誌編集者によって手直しされた。

② 作者が遺稿として手帳に清書する時に推敲して直した。

みすゞの遺稿となった手帳に基づく『金子みすゞ童謡全集①~⑥』の編集注記には「こうした生前発表作の多くは、投稿作品として当時の雑誌に掲載されたものだが、掲載状態は均一でなく、投稿作品のオリジナリティーはあまり尊重されていないのではないか、という疑問も残った。(中略)発表作には、当時の雑誌編者の加筆がうかがえるものさえあった。」とある。

これらの疑問は、今後の研究で明らかになると思うが、私は、作品のオリジナリティーは守るべきだと思う。散文は、言葉の使い方、句読点の付け方、連の分け方などすべてが作品を創り上げる。たとえ文法通りでなくても、漢字の読みが独特でも、耳慣れない造語であっても、それらが作品なのである。投稿作品が手直しされて、掲載されたのを見るみすゞは、よい気持ちでなかったと私は考える。

2つ目は、詩の解釈と朗読について。

「大人のおもちゃ」を選んだ私に、塾長がなぜ選んだのかと問うた。

「映画の禁じられた遊びに通じるものがあると思ったから。」と答えると、Aさんが

「兵隊さんという大人のおもちゃをほしいというなんていやだな。」とつぶやく。

「でも、みすゞは、兵隊さんを手にしても、戦いなんてしないと思うな。」と私は、解説する。

というように、塾生の詩の解釈は様々である。みすゞの思いを深読みすることもある。それは、読み手の人生観や体験が大きく作用する。みすゞの生涯を学んでいるからなおさら思い入れが深くなる。

また違って、作品の言葉を素直にそのまま想像することもある。それぞれの解釈で朗読するので、思い切り感情移入して読むこともあるし、みすゞになりきることもあるし、子どもになったり老人になったり、はたまた動物などを演じることもある。

みすゞ塾は、正しい朗読をめざす会ではないと私は、思っている。だから私は、いろいろな思いで、やれるだけの技法も使って読んでいる。そういうことが塾生の個性とあいまって、みすゞ塾は、毎回楽しい朗読会になっている。

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