明治生まれの詩人・金子みすゞが見たままの風景が、また一つ失われた。
下関駅近くにあった山陽ホテルだ。
政治家や軍部の要人御用達で、記者たちはここに詰めていれば国の動向がわかったと言われている。
大正ロマンの真っ只中、二十歳で下関に移り住み、六年後に命を閉じたみすゞも傍を通っていたホテル…。
下関公演でお世話になった「金子みすゞ・雅輔の会」副会長に久し振りに電話をかけた。
去年の秋に廃業した「喜楽湯」という銭湯の、その後を知りたくて。
みすゞは夫に性病を移されて娘を風呂に入れてやることができず、近所に住む親戚に頼んで、ふーちゃんを風呂に入れてもらっていた。
その共同浴場が「喜楽湯」なのだ。
保存にはお金がかかるため無理としても、せめて写真で記録しておかないと。
金子みすゞの研究における、貴重な資料なのだから。
私が初めてみすゞの足跡を辿る旅をした時にはあった商工会議所も5年前、公演会場の下見で再訪した時には無くなっていた。
みすゞが店番をしていた本屋の目の前にあった建物だ。
残念でならないが、その風景は私の血肉となって芝居に息づいている。
金子みすゞといえば「仙崎」のイメージだが、下関は金子みすゞの「もう一つの故郷」なのだ。
みすゞに興味のある方は仙崎だけでなく、ぜひ下関も訪ねてほしい。
詩人として華々しくデビューし、若過ぎる「晩年」を過ごした街。
幼子を抱えた病のみすゞが過ごした裏町「上新地」に身を置くと、みすゞの悲しみが肌に沁みてくる。
外国へゆく船を見つめながらみすゞは、何を想っていたのだろうか…。
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